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雑談という名のカウンセリング?
小谷ちいです!
今日は、阿久根先生とZoomで雑談をしました。
しかし、それは雑談というよりMさんのカウンセリングのような雰囲気でした。
Mさんは、自分の考えが相手と合っているかどうか、そしてそれを共有したいという強い願望から雑談を進めました。
具体的な内容は、守秘義務の観点から詳細を書けませんが、特別支援教育に関して様々な意見を交換し、新しい知識や認識を得られたようです。
特に注目すべきポイントは、
- 指導計画は関わる全ての先生と共同で策定すること
- 積極的に活用し、しっかりと記録すること
という点でした。記録は動画や音声などのメディアを使用し、クラウドに保存すれば次回の指導や支援に非常に役立つことが明らかになりました。
Mさんは、この部分に関して何故か紙ベースの文化に固執しており、「そういえばそうだ、なぜ気づかなかったのだろう」と驚きの声を漏らしていました。
ともあれ、保護者のニーズを深く理解し、先生たちが無理なく指導できる環境を整えることが非常に重要だということを再認識しました。
「実際に働いてみれば、明日からこの知識が役立つのに…。でも、正直辞めたい。そして、VTuberとしての活動にも興味がある!」とのこと。
素敵な雑談ありがとうございました!
「書きたい」か「書かなければならない」か
Mです。
「ブログを書きたい」と日々感じながら、SNSなどで話題を探してきました。
今回、子どもだけの留守番禁止などについてまとめようとしましたが、うまく文章にできませんでした。
「書かなければならない」という強迫観念にとらわれてしまい、途方に暮れていました。
私自身、精神的にうつ状態であり、適応障害を抱えている上に、他の問題も持っているかもしれません。
このような状態では、「~しなければならない」という思考は精神的にさらに負担を感じます。
先週末からは体調も悪く、手の震えや他人に対する不安感が強まっています。
今日も、娘をスイミングに連れて行った際、遠くの人々に恐怖を感じていました。
この状態では、外部からの情報をアウトプットするのは難しい。
だからこそ、自分が本当に伝えたいことを書くのが最適だと感じました。
今回は、自分の現状を率直に綴っています。
今、心から「したい!」と思うことは、
・PCに触れること
・SNSをチェックし、みなさんにポストすること
・今の教育について、多様な意見を取り入れること
その時、ぱっと思いついたことも大丈夫です。
しかし、「ブログを書かなければならない」「洗い物をしなければならない」と感じると、精神的に不安定になり、他人の感情が読み取りにくくなります。逆に些細なことが気になって、繰り返し確認したり、謝罪したりしてしまいます。そして、自己嫌悪に陥ります。
これは児童や生徒にも同じことが言えるのではないでしょうか?
「~したい!」というポジティブな意欲は素晴らしいものですが、「~しなければならない」というプレッシャーは、行動や感情を制約することがあるかもしれません。
心から「~したい」と感じたことを、思いっきり実践することが大切です。
今日は、心の中で「書きたい!」と思ったことを書き留めました。
不登校と学習とフリースクール
(これは、Mが論点を箇条書きした物をChatGPT-4に書いてもらい添削した文章です。)
先日、我が国での不登校児童生徒の数が過去最高となったというニュースが話題となりました。
その背景やその後の取り組み、さらには現代の学校教育のあり方について考察してみましょう。
まず、この急増の背景について、文部科学省は「コロナ禍での生活環境の変化や制限による交友関係の築きにくさなどが原因」とみています。
昨今の状況下では、生徒たちの心の中に様々な問題が抱えられていることが伺えます。
それが結果として学校への不登校という形で表れているのです。
このような現象が生じているため、児童生徒の出席日数にそれほど重きを置いてこなくなりました。
この点については、「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」を参照すると、出席日数の重視よりも、子どもたちが適切な教育を受けることの方が重要視されています。
では、不登校の生徒たちはどのように教育を受けているのでしょうか?
一つの選択肢として「フリースクール」が挙げられます。
フリースクールは、通常の学校とは異なり、もっと自由なカリキュラムやアプローチで子どもたちの学びをサポートしています。
しかし、現在のシステムでは、フリースクールでの学びは「公式な出席」として認められないケースが少なくありません。
それは、フリースクールでの学びが出席扱いとされるようになれば、「フリースクールに通えば出席としてカウントされる」という宣伝文句が生まれるかもしれません。
本来なら、出席日数だけを重視するのではなく、どのように子どもたちが真の教育を受け取ることができるかを考えることが必要です。
フリースクール等の活用や、それをどう評価するかは、今後の教育方針を考える上での重要な課題と言えるでしょう。
今、私たちは新しい時代の教育の在り方を模索している段階です。
不登校の背後にある真の問題を解決するために、多くの関係者が一丸となって取り組む必要があります。
この問題解決のための議論や取り組みが、我が国の未来を明るく照らすことを願っています。
医療と教育
Mです。
こんばんは、いつもありがとうございます。ふと思ったことを、ゆっくりと綴ってみましょう。(ChatGPTが文章を添削していますよ)
約30年前、祖父が亡くなりました。彼の死因は、胃がんからの転移だったと聞いています。
当時、胃がんが発見されると、ほとんどの場合、全摘出手術が行われていました。どこに病巣があっても、それを一掃する方が一般的でした。当時の医療は、病巣を取り除いてしまえば、完治と思われていましたが、残念ながら5年後に再発し、祖父は急逝しました。前日まで元気だった彼が、その夜にはいなくなってしまったことは、私にとってトラウマのような出来事でした。それ以来、亡くなった日やその前後には、何か不安がよぎります。初めてのうつ病もその日に発症しました。人生の中で何か出来事があるたびに、ついつい不安にかられてしまいます。
さて、少し話が脱線しましたが、現代の医療はどうでしょうか。がんが発覚した場合、全摘出手術ではなく、病巣の周りだけを取り除き、再検査を行います。問題がなければ、通常の生活を続けることができます。また、手術を行わない治療法も存在し、入院期間が短くなり、手術後は早期から動き始めることが奨励されています。不治の病とされていた白血病ですら、AIの導入により、最適な治療法が見つかる可能性が高まっています。そして、患者のカルテ情報もデジタル化され、地域医療システムなどが大幅に改革されています。
(医療も医療で問題はありますが)医療は確かに日進月歩で進化し続けています。
一方、教育はどうでしょうか?言わずもがな、教育も変革が必要です。
明治の学制から現代にかけて、教育システムにはいくつかの変化があったかもしれませんが、基本的な仕組みは変わりませんでした。150年以上にわたり、子供たちは教室に集められ、一斉に授業が行われます。教科や指導方法には改革が行われましたが、一斉指導の部分においては進歩が限られているように感じます。
過去の美徳を重んじ、新たなアプローチに対する抵抗が根強いようです。
なぜ、教育がここまで変わらないのでしょうか?変革が難しいからでしょうか?戦後、社会が大きく変化した時期にも関わらず、教育システムは根本的に変わりませんでした。その理由については明確ではありません。ただ、現在明らかなのは、従来の教育システムはもはや通用しないし、限界に達している(または限界を超えている)ことです。
教育方法も多様化し、教師たちも限界に達しています。指導の面では進歩が見られますが、システム全体も進化する必要があるのではないでしょうか?教育も、医療と同様に、時代に合った進化を遂げるべきだと感じています。なんちゃって。
追記 森のくまさんの騒動
小谷ちいです!
今日、ちょうど猟師さんとお話しする機会があったので、その際に得た情報をお伝えします!(これは猟師さんの体験と個人的な見解です)
・新聞に「熊を処分」と報道されると、その役所には「なぜ処分したのか」「なぜ森に返さなかったのか」「熊が可哀想だ」といった電話が殺到します。イノシシやシカについては電話はなく、「熊」の時だけだそうです。そのため、仕事が滞るほどの電話対応が必要です。
・熊が人を襲って人が亡くなり、さらに熊が処理された場合、「熊が可哀想」という声が多く上がりますが、亡くなった人に同情の声は少ないようです。
・今回の騒動では、熊を森に戻そうとさまざまな努力が行われましたが、熊は帰る気配を見せなかったため、また工場に入り込んだため、最終的に処分せざるを得なかったそうです。
・実際には熊よりもカモシカの方が扱いにくいとのことです。カモシカは処理ができず、捕獲後は必ず解放しなければならないため、暴れて大けがを負わせる可能性が高まります。
・過去には熊が罠にかかり、罠を設置していた人も大けがを負った事例があるそうです。
他にも興味深い話を聞けましたが、それについてはお伝えできない内容となりますので、ご了承ください。